王様ホール

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【読書メモ】夢野久作「火星の女」及び夢野久作について

いきなりだけど、「人権擁護」は「多様性の承認」とほぼ同義であると思う。
人間ひとりひとりの人権を認めることは、それぞれの個性をそれぞれ認めることである。マクロ的に見た場合、社会が人間の多様性を認めることが人権の擁護と言える。人種、ジェンダー、障がい、などなど、あらゆる個性が認められることが即ち人権の擁護である。
 
つってね。わざと堅苦しい言葉を使ってそれっぽいことを吹かしてみました。適当こいてるので、理解しようとしなくていいです。
 
さて、夢野久作「火星の女」は、並外れた身長と運動能力を持った少女のおはなしです。
体育祭(みたいなイベント)のときにはみんなチヤホヤしてくれるのに、平常時はバケモノ扱いされている少女の苦悩が描かれています。
学校の校長先生にまで「あれは火星から来た女だ」などと揶揄されます。
昭和初期の人権意識はこんなもんだったのでしょう。コンプライアンスにうるさい昨今、昔の小説を読むと色々新鮮です。夢野久作の他の作品はもっと凄いよ。今で言う差別用語のオンパレード。その時代には当たり前だったんだから仕方がない。

さて、「火星の女」こと甘川歌枝は、校長先生に誤ってレ○プされ、その際にうっかり寂しさに共感して受け入れてしまったことによって、取り返しのつかないことになってしまいます。
そして、色々仕込んだ後に焼身自殺して復讐を図ります。
 
当時は特に女性の人権が認められていなかった時代です。女性は結婚したら家に入って当たり前の時代。職業婦人はいたけど、世間の風当たりは強かったろうと想像できます。わざわざ「職業婦人」というくらいだから、「婦人」は職業を持ってない方が当たり前だったんです。
ちなみに、「職業婦人」というのは、社会で普通に働いている女性のことも指しますが、隠語として今で言う売春婦・娼婦を指す言葉でもあったらしいです。「あっちの方の職業婦人」とか言ってね。
 
ところで、現代でも、例えばロシアの女子バレーボール選手みたいに2mくらいの身長があって優れた運動能力を持った女性がいたら、どうしたって最初は好奇の目で見てしまいますよね。今はそういうのは良くないことだという教育があるからみんな表立っては何も言わないけど、見た瞬間に自然と「!」という気持ちにはなるはずです。
昭和初期にそんな女性がいたら、たちまちバケモノまたは火星人扱いですよ。「女は旦那さんを立てて家を支えてナンボ」みたいな時代に、そんな目立つ女性がいたら、もう表でも裏でも色々言われますね。
本人は傷ついているのにね。
 
そういう時代に、そういう問題を取り上げて、「火星の女」の痛快復讐劇に仕立てる夢野久作は凄いです。と思ったけど、火星さんを結局死なせるしかなかったところは時代の限界ですかね。
 
さて、作者の夢野久作について、私の観点から紹介しておきましょう。
ドグラ・マグラ」の著者です。
やたら有名なタイトルです。読んだことはなくてもタイトルだけはご存知という方も多いのではないでしょうか。
ドグラ・マグラ」は、「これを読んだ者は発狂する」とか大袈裟なことを言われていますが、今読むと目新しさはないです。当時はセンセーショナルな作品だったことは想像できます。無限ループ構造を彷彿とさせたり、作中作が入れ子構造のようにいくつか出てきたりするので。
 
ドグラ・マグラ」は、紛れもなく夢野久作の一大傑作ですし、非常に手の込んだ構造の、完璧に近い作品です。
しかし、「ドグラ・マグラ」だけ読んで夢野久作を理解したつもりになってはいけません。他の作品も、色々読んでみて下さい。
 
雑。
 
明らかにやっつけで書いたやつ、多い。
未完で終わってるのもある。
イメージだけでぶっちぎってる作品、すごく多い。 
だがしかし、その「イメージ」が堪らないんです。独自の幻想世界が、実に生き生きしている。読んでいて絵をイメージしやすいです。

かと思えば田舎(福岡)に密着した泥臭い作品も数多く、そのリアリティーもまた魅力的。
日露戦争や万博で海外を舞台にした作品もあるし、雑な作品が多いかと思えば、「瓶詰地獄」みたいに手の込んだ作品もあるし、短歌も詠むし評論も書くし能楽にも詳しいし、もう、この人、どれだけ幅を持ってるんだろう。

私は、夢野久作の人間臭さを愛しています。
全くかっこつけてない。
ドグラ・マグラ」にしても、とても複雑な作品なのに、コミカルかつクセの強すぎる文体のおかげで、これが「読んだ者全て発狂する」「奇書」なのか?と訝しげに思ったものです。
 
長くなりすぎてすみません。でももっと書きたいくらいです。