王様ホール

考えたことや感じたことや起こったことを書きます。

私の小山田問題

これを書いている今は、2020が2021になった東京オリンピックまっただ中。コロナ禍の最中に行われている史上空前の無観客オリンピックである。
数年後に読み返してもわかるように、敢えて詳しく書いた。
 
このオリンピック、準備段階から色々あった。エンブレム盗作疑惑に始まり、競技場のデザイン大幅変更だとかコロナで1年延期だとか、森元首相の女性蔑視発言だとか、色々ありすぎて何が何やらである。

そんな中でも、開会式4日前に音楽担当の小山田圭吾の過去のいじめ自慢問題が再噴火し、降板となったことが、私の心に思いのほか響いている。開会式から1週間以上が過ぎているのに、である。今更である。

私の頭の中に、隙ができると、フリッパーズギターコーネリアスの楽曲が流れてくるのだ。
 
何を隠そう、私は小山田の楽曲のファンであった。だんだん私の趣味がメタル方面に傾いていったため近年は聴いていなかったが、高校時代はフリッパーズギターをとても愛していたし、解散後もしばらくコーネリアス(と、ついでにオザケン)を聴いていた。コーネリアスのライブに1回行ったことがある。
メタルが9割を占める私のiPodの中に、数少ない非メタル曲として、フリッパーズギターの全3枚のアルバムが未だに入っている。
そのくらい好きだったのだ。
 
小山田の過去のいじめ自慢のことは、おぼろげながら知っていた。
学生時代に同級生や障害者に対して酷いいじめを行い、それを雑誌のインタビューで自慢気に語ったのが掲載されたというもの。
載せる雑誌も雑誌でいかがなものかと思うが、それは今は置いといて。

今回の件で軽く調べただけなのに想像以上に酷い内容が次々出てきて、こりゃアウトだなと思った。いくらファンでも、擁護の余地もない。

いじめに遭った人は、一生消えない心の傷を負うからね。どんなに軽いものだったとしても、その後の人格形成に何らかの影響が出る。私が身をもってそれを知ってる。
私が遭ったのは軽いやつだけど、もともと内気な性格だったのに、そのせいで更に人間関係に積極的になれなくなったもん。そんで、それを未だに克服できていない。

軽度の被いじめ体験のある私であってもなくても、いくらファンでも、小山田が過去にやったことは擁護できない。
しかし、楽曲が可哀想だ。
いくら作った人の人格がク◯でも、リリースされた楽曲は楽曲で、それは正当に評価されて欲しい。というのは楽曲のファンのエゴなのか。
 
「大好きだったのに、この件がショックで、CD全部捨てました!」なんていう人もいたみたいだけど(ネット記事で見たやつなので本当にいたのかどうかは謎)、もしそんな人がいたなら、その人は本当に楽曲のファンではないんだろうな、と思った。
 
罪を憎んでも人を憎んでも、楽曲まで憎むことはない。それが私の意見だ。
その人が形にした楽曲は、ただそこにいて鑑賞・評価を待っているだけだ。
 
「作品と作者を切り離して評価するべきか問題」は、常にある。
作者の背景や人となりを知ることで、作品への理解が深まることもあるだろう。逆アプローチとして、何らかの作品を気に入ったら作者のことを知りたくなる場合もあるだろう。
そういうこともあるけれど、既に世に放たれた作品が、そういったバイアスによって素直に評価されないことがあるなら、少し悲しいことであるように思う。

こうしている間にも、私の頭の中には、「恋とマシンガン」が、「ラブアンドドリームふたたび」が、「ハロー~いとこの来る日曜日」が、隙あらば流れてくるのである。
 
実は小山田よりも小林賢太郎降板の方が口惜しかったのは内緒。
ラーメンズもね、私、大好きなんですよ。DVDいっぱい持ってる。
若気の至りとはいえ、過去にホロコーストのことをネタにしてしまったことが国際的にアウトだったんですね。
小山田と違って小林氏は過去のことを反省し、すぐに自ら人を傷つけない高次の笑いを目指して体現していたというのに、これはファンとして不憫に思います。
過去に一度でも過ちを犯した人は、二度と国際的な表舞台に出られないのでしょうか?
 
のぶみはどうでもいい。