王様ホール

考えたことや感じたことや起こったことを書きます。

「あるある」は「教養」か

前回は敢えてさらっとしか書かなかったんだけど、なかなかに由々しき事態になっているなと思っていることがある。または、完全に時代が変わってしまったと言おうか。

前回の↓

yamakinkin.hatenablog.com

> うちみたいに大相撲中継も夕方のニュースも観ない家では、子どもたちに「四股名あるある」が通用しない。

これ、昭和~平成の時代ではまず考えられなかったことだ。おすもうさんの名前といえば「~~山」とか「~~の海」とか「若~~」とかそういう感じなのだということは、全世代に共通の常識であったように思う。

当時はネトフリやアマプラなどのサブスクが一般的でなかったからだ。
テレビを観るといえば「やってる番組を観る」しかなかった。今のように「観たいものを能動的に観る」時代ではなかったのだ。

アニメやドラマやバラエティ番組が放映されていない夕方の時間帯は、主にニュースや情報番組の時間であった。特に興味もないし観たくて観ているわけではないけれどスポーツニュースも流れており、「今日は巨人がヤクルトに勝ったよ」とか「若乃花が全勝優勝に王手をかけたよ」とか「読売ヴェルディでカズやラモスが大活躍だよ」とか、特に知りたいわけじゃなくても情報が自然と頭に入り込んでいた。

更に時代を遡って、私が子どもだった昭和時代まで行くと、私が学校から帰って宿題やってから遊んでる間、茶の間のテレビでおじいちゃんが大相撲中継を観ていたものである。おそらく、多くの世帯がそうだったと思う。
なんかおじいちゃんが毎日のように相撲観てるから、私も力士の名前を自然と覚えてしまってた。千代の富士とか北の湖とか大乃国とか朝潮とか小錦とか。

テレビのいいところは、自分が興味のない分野の情報も自然と摂取できることである。サブスクやインターネットで情報収集をするのも良いが、それだとどうしても範囲が偏ってしまう。
食事に喩えて言えば、自炊するのは一見いいことだけど、自分の食べたいもの・自分にとって良いものばかりを食べていると、なかなか新しい料理や食材を知る機会に恵まれない。その点、学校給食は、自分や自分の家庭で触れることのなかった食の可能性をもたらしてくれる。それが合わないと思ったら、合わなかったということを知るいい機会なのである。
知らない限りは、それが自分に合うか合わないかもわからない。

テレビの悪いところは、概ねくだらないところと、発信側が恣意的に情報を操作できるところである。
だから私はテレビ番組をほとんど観ない。「ZIP」と休日昼のローカル情報番組と「鉄腕DASH」と「美の壺Eテレ)」ぐらいしか能動的に観ていない。「ZIP」とローカル情報番組から、最大限、「世間一般の」トレンド情報を仕入れている。

私がテレビに対してこんな見解なので、平日の夕食時も、くだらないテレビ番組なんか観るぐらいなら子どもたちの観たいものをサブスクまたはYouTubeで流していてもいいと思っている。実際そうしている。


その結果が、「おすもうさんの名前あるある」がわからず、力士に「ごりごりたろう」と名付けてしまう子どもの爆誕である。

これはマズい状態なのか?
うちだけがそうならマズいけど、みんながそうなら別にいいような気がする。


こないだどっかで見たんだけど、「教養」っていうのは「内輪ネタ」なんだってさ。
なるほどなーと思った。「教養のある人どうしで通じるネタや仕込み」って、まんま「内輪ネタ」のノリだもの。

例)
ある時、イエスが弟子たちを連れて街中を闊歩していると、
一人の女性が民衆から石を投げつけられていた。
なぜこんなことをしているのかと、弟子が民衆の一人に問うと、
「この女は罪人だからだ」と答えた。
それを聞いたイエスは民衆にこう言った。
「ならばしかたがない。続けなさい」
そしてこう続けた。
「ただし、一度も罪を犯したことのない正しき者だけこの女性に石をぶつけなさい」
民衆は、とまどい、やがて一人また一人とその場を離れ、
石をぶつけているのはイエスただ一人だけとなった。

そんな高度な教養を必要としない、やや悪趣味なジョークである。ネットである程度有名なコピペ文。

キリスト教では、人間はみんな生まれたときからアダムとイブが犯した罪を負わされてており(=原罪)、その罪を負っていない人はイエスただ一人なのである。
これがわかっていれば、例文の理解度が深くなる。作った人の狙いもわかるようになる。

わかってなくても「いやせめてイエスは石投げんなよ、やめたれよ」というツッコミができる面白いジョークであるが、イエスが無原罪の人だということを知っているといないとでは、おかしみの質が違ってくる。

「教養」=「内輪ネタ」=「あるある」かもしれないな。
エスあるある →処女から生まれた。
エスあるある →石をパンに変えられる。
エスあるある →無原罪。
みたいな。

そう思うと、今更ながら、「聖☆おにいさん」はキリスト教と仏教の教養があればあるほど楽しめる漫画ですね。


さて、子どもがおすもうさんの名前あるあるがわからない状態が悪いのかそうでないのか。
私にはわかりません。

みんなが同じテレビ番組を観ていないということは、みんなが理解できる強固な「あるある」がだんだん無くなっていくことと等しいのではないか。
でも、みんなが同じようにSNSやらネットニュースを見て、同じ話題を楽しむことができたら、「あるある」は存続するのではないか。
しかし、SNSをやらない人もいるし、「あるある」が存続したとしてもそれは昔よりも遥かに普遍性に乏しく、それこそ内輪でしか通じない「あるある」に過ぎないのではないか。
それを「教養」と呼ぶことができるか否か。

うーん。

今は過渡期だから結論は出ない。

けど、個人間の断絶・世代間の断絶がなるべく起こらないように、私は親子の対話を大切にして行きたいと思うよ。