王様ホール

考えたことや感じたことや起こったことを書きます。

日本人の習性~ふきのとうの天ぷら

日本人、春に生えてきた芽は何でもかんでも天ぷらにして食べがち。

 

これはそんな春の芽のひとつ、ふきのとうの天ぷらでございま~す。
相変わらず「映え」など全く考えてない無骨な写真でごめ~ん。誠にすいまめ~ん。

頂き物です。もともとはこれの2倍量ありました。
ビニール袋1杯分のはずだったんだけど、揚げてみたら思ったより多くてびっくりした。

おそらく、私、ふきのとうの天ぷらをちゃんと食べるのは人生初です。
子どもの頃、親戚が採ってきたふきのとうの天ぷらが食卓に出たことはあったと思う。
でも、ふきのとうは苦みがあるので、子どもの私はただ単に「苦い」って思ってしまって早々にギブアップしたと思います。

たらの芽なんかもそうだけど、春の芽≒山菜って、たいがい苦みやエグみがあって、丁寧にアク抜きするか乱暴に天ぷらにしないと食べられないのが多いですよね。そして、それらは子どもには少々好かれにくいですよね。

子どもの例に漏れず、私はふきのとうに苦手意識を持っていました。苦いんだもん。

でも、大人になったから大丈夫かなと思って、食べてみました。たらの芽だって美味しく食べられるようになったんだから。

結果、苦かったですが、ちゃんと「美味しい」という感想で食べられました。やった。私、大人になった。
苦味の中にも、成長したふきに通じる独特の爽やかな香りがあってね。なかなか美味しいもんです。苦いけど。

本来「苦味」というのは、生き物が忌避する「毒」の味なんですよ。なのに人類はその「毒」をどうにかして食べる方法を編み出し、なんなら後天的な学習によって「苦味もこれはこれで美味しさのひとつ」だと感じるようになったんです。その「毒」を肝臓などで無毒化する能力に長けてたのかな。
人類の適応能力、半端ないっすね。

そんな人類の中でも特に日本人は
「春だ!草木の芽だ!食べ物だ!」
「初物だ!尊い!初物の勢い、いっただっきま~~っす!!」
って考える。

日本人にとって、「初物」は尊いんである。これは一種の宗教である。前に述べた。

yamakinkin.hatenablog.com

神道なのかね。まだ「穢れ」がない、「初」を尊ぶ思想。
個人的には神道の潔癖すぎる思想が好きではないんだけど、「初物の勢いを頂きたい」気持ちはなんとなくわかる。
初物には何らかのエネルギーが宿っていると感じられるからだ。

長い冬を乗り越えて、蓄えていたエネルギーを振り絞ってやっと顔を出した初芽。
一番活動的な季節の、活き活きした魚。
一生懸命育てて、やっと収穫の時期を迎えたお米や野菜や果物。

そんなエネルギッシュな食べ物を美味しく頂いて自分の活力にしようという気持ちは理解できる。

食べられる食べ物の側としてみたら、「やった!やっと成長したよ~~~!!」というところで人類に取って食われちゃうんだから、ちょっと虚しい気持ちかもしれませんね。

だからこそ人類、いや日本人は、食べ物に「感謝」をするのです。生きている以上、何らかの生命を犠牲にするのは避けて通れないのだから、「感謝」をします。

日本は自然災害が多くて飢饉の発生も多かっただろうから、単に「春になった!食べられそうなもの生えてきた~~~~!!!」っていう気持ちで「初物」の山菜を珍重するようになっただけかもしれないですけどね。

 

で、冒頭のふきのとうの天ぷら、大人になった私はまあわりと美味しく頂けたんですが、子どもたちはどうだったのか。

下の子(7歳)の場合:
「食べてみる!」って言って、小さいのをひとつ食べた。苦かったようだ。真顔としかめ面の中間のような、何とも言えない微妙ないい顔してた。
これは苦手かなーと思って何も言わず見守ってたんだけど、その日の食事の時間の終盤に、自ら進んでもう1つ食べていた。また微妙ないい顔してた。

上の子(12歳)の場合:
薦めたけどなかなか食べなかった。その日の食事の時間の終盤に、試しに小さいのをひとつ食べた。
「あ~~……これは、こういうのかー。苦いけどこれなら大丈夫、まあまあ美味しい」みたいなことを言っていた。
もうひとつ薦めたけど食べなかった。
結論、「微妙」。

2人とも、大人になってから、機会があったら再チャレンジしてみてほしい。

 

こんなふうに、ふきのとうの天ぷらは、いろいろ考えるきっかけになった。

ななななー ななななー ありがとう ふきのとう♪

※序盤で伏線張ってたことに気付いてくれた方には「ありがとうオリゴ糖」の言葉を贈ります。

回転しない回転寿司を回転させる方法

先日、スシローに行ってきました。

寿司ペロリスト事件の直前に行って以来でした。

その忌むべき事件の後、メディアの報道で言われていた通り、スシローのレーンには注文品しか流れなくなっていました。誰もが自由に取っていい寿司、いわゆる野良の寿司(注・我が家だけで通用する呼称)は一切流れていませんでした。

 

悲しいなあ。

 

基本的には食べたいものを都度注文して食べるんですけど、たまに野良の寿司を食べたいシチュエーションがあったんですよ。

それはこんなとき。

①ややイレギュラー気味のレアなお寿司が流れているとき。
 ・たまごの端っこ(香ばしい気がする)
 ・炙りびんちょうの端っこ(炙り部分が多くて食べ応えがある)
 ・はまちのトロ部分(脂ノリノリ)
 ・逆にはまちの血合いが多い部分(鉄分が豊富)
 などなど、注文品では出せないブレがあるもの。

②もっとレアなお寿司が流れているとき。
 ・倍盛り海鮮漬け(はまちやサーモンの切れ端のヅケが、なんと!)
 ・はまち天身(数が採れないレアな部位、詳細はわからん)
 ・レーンを何周かして鮮度が落ちたはまちが、はまち天ぷらにぎりになったもの。塩かけて食うと美味いぞ。

③注文しようとも思わなかった意外なものがたまたま流れてきて、「あっ、あれ何だろう、美味しそうだな」と思ったとき、(皿の色を見つつも)とっさに取る。
 取らなかったとしても、タッチパネルで素性を調べ、食べたかったら注文する。野良の寿司はディスプレイ広告の役割もしていると思う。

④何にしようかな~、まぐろかなー、オニオンサーモンかなー、う~ん……って次の注文を悩んでるとき、目の前にたまたまオニオンサーモンが流れてきたときは、取っちゃう。
 また、着席してすぐ、子どもたちがドリンクやファースト寿司オーダーをしている間、良さそうなはまち等が流れていたら、それを取っちゃう。
 つまり、微妙に食べたいものがある状態のとき、目の前にその食べたいものが来たら、取って食べる。

 

以上のように、私は、野良の寿司もけっこう食べてたんです。はまちのことばっかり書いてるけど、私ははまちが大好きなのでそこは許してほしい。

なのに、極一部の馬鹿のせいで、野良の寿司が駆逐されてしまったんです。馬鹿許すまじ。

正直言うと、注文品は相変わらずレーンを流れているため、いたずら……という言葉で済ませてはいけないな、「狼藉(ろうぜき)」にしよう。流れている注文品に狼藉をはらたこうと思ったら未だはたらき放題の状態なんですよ。
そのことでスシローさんに「対策が不十分なんじゃねーのー?」と言うことは簡単ですが、スシローさんにだってすぐできることとできないことがありますし、スシローさんを責めるのは私の本意ではありません。責めたくない。嫌だ。

野良の寿司を無くしてしまったために上記①~④の(私にとっての)メリットがごっそり無くなってしまったことは、スシローさんにとっても痛手なんじゃなかろうか。

何より、「野良の寿司が回転している」というエンタメ性が無くなってしまったじゃないですか。
注文品だけになったとしても相変わらずお寿司がレーンを流れているあたり、スシローさんはどうしても「回転」という形態にこだわりたいのかもしれませんが、野良の寿司が回ってないとワクワク感が半減しちゃうな。私にとっては。

 

どうにかして、安全に、野良の寿司を回し続ける方法はないものだろうか。

上記①~④のうち、私が真のメリットだと思っているのは、③ディスプレイ広告の効果と、④衝動的な食欲への対応だ。

回っている野良のお寿司を見て、「食べたい」と思って、即注文できればいいのだ。

だったら、それが必ずしも現物のお寿司でなくても良いのではないか。

そこで私が考えたのがこれ。

緑点線部分に着目してほしい。

タッチパネル下部に、いろいろなお寿司の写真(写真であることが重要)(上図は都合によりイラストだが、本当は現物を撮影した写真がいい)をランダムで流しておくのだ。もちろん、お店側の推したいメニューを多めに流していたって構わない。けど、できればバリエーション豊かな写真を流してほしい。

客は流れるお寿司の写真を見て、「この見たことない寿司は何だ?気になる!」「あっ!オニオンサーモン来た!今食べたかったんだ!」「いなり寿司か……たまには食べたいな」等と思ったら、その写真を直接タップする。タップすると、メニュー名と「注文しますか?」→「皿数」が出る。思ってたんと違かったらキャンセルもできるシステム。
あ、これで①②の「たまごの端っこ」「倍盛り海鮮漬け」「はまち天身」等の写真をレア的に流しておいて、タップしたお客さんだけそれが食べられるシステムにしたら、無駄が減るかもね。

尚、上図の緑点線部分以外の部分は、スシローのタッチパネルの写真を見ながら頑張って図で再現してみました。Excelで。

これマジで実装してくれませんかね、スシローさん及び他の「回転」にこだわる寿司チェーン店の皆さん。
タッチパネルから選ぶのもいいけど、予想外の寿司を見せられて「食べたい」と思う体験をしたいんだわ私は。
この関係性は、インターネットとテレビの違いと全く同じです。
参考↓

yamakinkin.hatenablog.com

つまり、食べたいものを自分から注文するのがインターネットで、食べたいものも食べたくないものも両方の情報が満遍なく入ってくるのがテレビっていう関係性ね。

スシロー店内でこのアイディアを夫に話したら「それいいね」って言ってくれた。

どうですか、スシローさん。
※こんな飛沫ブログで喚いてたって伝わらないよ。

 

とにかく私はスシローを愛していて、野良回転寿司が無くなったことを嘆いている。
極一部の目立ちたがりイキり承認欲求モンスター・端的に言うと馬鹿が暴れたせいで、日本が性善説に基づいて築き上げた「回転寿司」のシステムが根底から揺らいでいるんですよ。「安心安全」が脅かされてるんですよ。

厳罰に処されろ。莫大な損害賠償を請求されろ。猛省しろ。

くら寿司でやらかした馬鹿は逮捕されたようですね。そのくらいじゃないとダメだ。

ゆきじるコのパン

私はパンが好きです。なんならご飯より好きかもしれません。
朝はパンじゃないと嫌です。たまに気まぐれでご飯を食べることもあります。が、基本はパンです。

ほんで、そのパンはだいたいホームベーカリーで自作したパンです。
主食のパンから余計な味がするのが嫌なので、極限まで砂糖や塩を減らしてバターを増やした、自分好みの食パンを焼いています。ほぼ砂糖の甘みを感じない食パンです。
市販の食パンはだいたい甘いから好みじゃないです。絶対に買わないわけではないが。

家族が米を食べたい場合は米も選べるように、毎朝ご飯を炊いています。
なにも全員が同じものを食べなくてもいいと思ってる。朝は各自食べたいものを食べたらいい。おかずは軽く何か用意してます。
私はパンがいいけど、息子は最近、塩むすび(私がにぎるやつ)にハマってますね。塩むすびが好きとか、渋い小学1年生ですね。

 

とにかく私の朝はパンなのです。

いつも同じ食パンでも全然構わないし、自分好みのベスト食パンレシピを模索してるのですが、たまには変わったパンを食べたくなります。くるみ入れたりね。

前回「ゆきじるコ」のことを書いてから、「そうだ、ゆきじるコでパン作ったら美味くね?」と思い立ちました。

ゆきじるコとは、「雪印コーヒー」のことです。いわゆるコーヒー牛乳。yamakinkin.hatenablog.com

 

各ホームベーカリーの基本レシピによって色々異なるとは思いますが、「スキムミルク」「水」の部分をまるまる、「ゆきじるコ」に置き換えて作るといいと思います。
すると、こうなります。

わあ美味しそう♪

茶色♪

ふわっとコーヒーが香る、ゆきじるコ食パンができました。

今回は私のオリジナルレシピの「砂糖減らし気味」でやったので、ほんのり甘いパンになりました。しかし、ゆきじるコ食パンを作る場合は、いっそ砂糖をいっぱい(分量通りかそれ以上)入れて、甘いパンを目指した方がいいと思いました。菓子パン方面。たまに作るならそれも悪くあるまい。
あと、よりコーヒー感を出すために、インスタントコーヒーを小さじ1/2くらい加えるのもいいかもね。
そしたらゆきじるコを使う意味が無くなるか?うーん。

 

家庭でも仕事でも同じようなことしてるな私は。

詳しくは言わないが、仕事では粉とか液とか計量してそれを混合したりしている。
使いやすいので、市販の大さじ小さじやステンレスボウル/カップを使用している。
材料の比率とか種類とかいろいろ試して実験している。

家に帰ってから、明日のパンを作ろうと粉とか液とか計量してホームベーカリーの釜にブチ込んでると、「仕事でも粉や液を計量して、うちでも粉や液を計量して、やってることはほぼ一緒だな」という気分になる。
材料の比率とか種類とかいろいろ試して実験してるし、そこまで一緒かよ。


料理は科学です。

小1のネーミングセンス2

1はこちら

yamakinkin.hatenablog.com

うちの小1息子のネーミングセンスにはキラリと光る何かがある。

 

雪印コーヒー」ってありますよね。雪印メグミルクの、いわゆるコーヒー牛乳だ。
今年、発売60周年を迎えたらしい。これを書いている少し前、志田未来さんによる「雪コに甘やかされたい」とかいうキャンペーンをやっていた。

キャンペーンサイト
https://www.meg-snow.com/yuki-coffee/yuki-coffee60/

雪印メグミルク公式HP
https://www.meg-snow.com/


「雪コ?誰だそれ」と思ったが、すぐに「雪印コーヒー」の略だと気がついた。
公式はそう略すのか。そうか。

 

うちの小1は「ゆきじるコ」って略してます。

私か夫が雪印コーヒーを買って帰ると「わー!ゆきじるコだー!」って喜ぶし、何か甘い飲み物が欲しくて冷蔵庫を開けたとき、雪印コーヒーが目に入ると「ゆきじるコあった!ゆきじるコ飲みたい!」って言う。

お汁粉みたいだね。ゆきじるコ。

赤飯考

今日のお昼ご飯(の一部)。
赤飯。
おいしいよねー。

いや私は大好きなんだけど、世間的な人気ってどうなんだろう。

 

赤飯とは、もち米と小豆(注1)を混ぜて蒸かしたご飯である。ごま塩をかけて食べると非常に美味しい。
赤色は縁起がいいので、昔っから、何かおめでたいことがあると赤飯を炊いてお祝いしていた。私が子どもの頃は、親やら祖父母やらがよく他所のお祝いで赤飯をもらって来てたような気がする。なんか朱色の、南天みたいな植物の絵が描かれた紙が巻かれた、プラスチックのパックに入ってた。端っこにスライス紅生姜が乗ってて、その紅生姜の下の赤い生姜汁が染みた米が一番美味しかったなあ。

……ちょっと待てよ。赤飯の折詰に紅生姜って全国区の話かな?まさか北海道独特の習慣だったりしないかな?
こういうのなんですけど……。

画像は借り物ですが、注1でしっかり説明しようとしてた北海道式の甘納豆の赤飯だな、これ……。

あああーそれじゃもう、先に注1の説明しちゃおうか。

(注1)一般的には赤飯の豆は小豆だが、北海道の赤飯は甘納豆が入っていて、食紅で色付けされている。もちろん甘い。
 但し、北海道つってもいろんな家があるわけで、私の実家の赤飯は、小豆の甘くない赤飯だった。もしかしたらおばあちゃんが青森県出身だからかな?
 他所の家からもらった甘納豆の赤飯を食べたら当然甘くて、「いつもの甘くない赤飯の方がいいなあ」と思ったことがある。

 北海道の甘い赤飯は、トリビア好きの人たちの間では既にそこそこの知名度があるし、農林水産省HPの「うちの郷土料理」でも紹介されている。

www.maff.go.jp

 私、農林水産省HPのこのコーナー、かなり好きです。「鉄腕DASH」で「農林水産省のコレで紹介されていない郷土料理を見つけよう」みたいなコーナーやってるしご存知の方も多いとは思いますが、マジでいいです。わくわくします。
 日本全国には私が食べたことのない、昔から伝わる郷土料理がいっぱいだぁ。

 

はい注1の説明終了。長いっしょ。だから最後に持ってきたかったのに、紅生姜のスライスなんて余計な情報を思い出しちゃったからさあ。
でも、紅生姜の下に数時間敷かれて赤く染まった米の部分が一番美味しいのは本当。
甘納豆の赤飯じゃなく小豆の赤飯でも、家族がもらってくる赤飯の折詰(パック詰)には必ず紅生姜が入っており、その下の米が一番美味しかった。姉妹で取り合いしてた。

 

ここまでで既に1000字くらい書いてるけど、やっと本題に戻ろう。

赤飯って、世間一般的に、どのくらい人気があるんでしょうかね。

コンビニのおにぎりコーナー、必ず赤飯おにぎりが置いてありませんか?

今日は天皇陛下のお誕生日(祝日)だったけど私は出勤で、自分のお弁当作るのダルかったから、通勤途中のコンビニでお昼ご飯を買って行きました。
赤飯は必ず置いてあるとの確信のもと、朝買った赤飯おにぎりをお昼に写真に撮って「どうしてコンビニには必ず赤飯おにぎりがあるのだろう」というネタにしようと最初から決めていました。
案の定、赤飯おにぎりはありました。買いました。無事ネタにできました。美味しく頂きました。

コンビニ黎明期からずっと、赤飯おにぎりは、ド定番の「鮭」「梅」「昆布」「ツナマヨ」「明太子」あたりと共に必ず置いてあるイメージなんですけど、間違ってますか?

私は赤飯おにぎりが大好きですが、世間のみなさんも好きなんですか?だから必ず赤飯が置いてあるんですか?

鮭とかツナマヨとか、エビマヨとか明太子とか、そういう「強い」やつに混じって必ず赤飯が置いてある気がするんですが、赤飯はそこまで「強」くはなくても、梅や昆布あたりと同格の、「なんとなくマスト」のポジションですか?

それとも、もち米主体で他のおにぎりとは違うけど、だからこそ独自性を確立できてるパターンですか?
ミスドでいう「ハニーチュロ」のポジションですか?
マックでいう「フィレオフィッシュ」のポジションですか?

もしかして、何かお祝いしたい人が赤飯おにぎりを買うんですか?コンビニ運営さん、もしかして、「何かお祝いしたい人が買うだろう」と想定して、赤飯おにぎりをマストにしてるんですか?

ひとつだけ言える確かなことは、売れるから消えないんでしょうな。
つまり、赤飯おにぎりを食べたい顧客が無視できない数で存在するから、赤飯おにぎりは廃番にならない。むしろ基本ラインナップの一角であり、売れている商品であるということだろう。

みんな、理由はどうあれ、赤飯好きなんですね。

あいまいな日本語と息子と私と日本語

「かなこ(仮)嫌い。日本語通じないんだもん。」
と、息子がプンスカしていた。

かなこ(仮)とは、けっこう年配の、児童クラブ(=学童保育)の職員である。多分間違いなく日本人で、ネイティブ日本語スピーカーである。

児童クラブの先生を呼び捨てにしないこと、そういう言い方をするもんじゃないことを注意した上で、「何があったの、日本語通じないって何?」と息子に聞いてみた。

事の顛末はこうだ。

児童クラブでは、下校した子どもたちが宿題を済ませ、その後自由に遊び、先にお迎えが来て帰る子は帰り、残った子どもたちは帰るまでの間、DVDを観てお迎えを待つ。
その日のDVDは、息子が既に観たことのあるアニメ映画だったようだ。
みんなが帰って息子が最後に残ったので、好きなシーンを観るために、かなこ先生(仮)に頼んでDVDを進めたり戻したりしてもらおうとしたらしい。

「そしたらね、『もうちょっと前』って言ってるのに先に進めるし、『もっと後ろ』って言ってるのに戻すの。全部逆にするの。日本語通じないんじゃない?」

ああー……。それは私も嫌いな、日本語の難しいやつだー。息子もかなこ先生(仮)もどっちも悪くないやつだー。

息子の「前」は、今自分がいる時間より以前のところ、つまり時間で言うと早いほうのことだという認識のようだ。しかし、先生の「前」は、今自分がいる時間より先に進んだところ、つまり遅いほうの時間だと解釈したようだ。
同様に、息子の「後ろ」は時間が先に進んだ遅い方、先生の「後ろ」は自分の後ろに過ぎ去った早い時間の方。

「前」とか「後ろ」は、話し手から見た主観的な前後しか表すことができない。「前」「後ろ」はいずれも相対的であり、東西南北みたいに絶対的な座標(注1)ではない。誰から見ても同じではない。
今回は、息子が向いてる方向と先生が向いてる方向が完全に逆だったから齟齬が発生したのだ。

息子が最初から「戻して」「進めて」という言い方をしていれば良かったんだな。


以上の内容を、一緒にお風呂に入りながら、息子にわかるように一生懸命説明しました。
疲れた。


尚、私は、「先」という言葉も苦手だ。
「〇〇より先に△△をやる」
という場合は△△→〇〇という順番なのに、
「〇〇の先に△△がある」
って言ったら〇〇→△△という順番になるから。
子どもの頃はマジでこれがわからなかった。先っていうのは後なの?先なの?つって混乱してた。
息子とかなこ先生(仮)の「前」「後ろ」も、私が当事者だったらもちろん同じ齟齬をきたしていたことだろう。

何だろうこれ、日本語のバグ?
他の言語のことは知らないけど、日本語ってこういうバグ多そうだよな。同音異義語が多すぎだし、一つの言葉に割り振られた意味が多様すぎる。「大丈夫です」「いいです」「ヤバい」あたりは、それぞれ完全に逆の意味で使うことも多いもんな。
挙句に日本語って、主語や目的語を平気で省略するしさ。
「雰囲気でわかれよ」が多すぎる。わかんねー人はわかんねーんだよ。

海鮮居酒屋さんで遅くまで話し込んでたら頼んでもいないエビの味噌汁が出されて、連れに「すごいね、このお店サービスいいねえ」って言ったら「これはそろそろ帰れっていう合図だよ」って教えられたことあるよ。
何だよそれ。わっかんねーーーーー!!!みんなわかるの?わかるとしたらどうしてわかるの???
※日本語関係なくなったしIQが低くなった。

私、誰かにきちんと教えてもらわないとわからないことが多いんだよな。書写のお手本が何のためにあるのかわかってなかったし。これが「空気が読めない」ってやつなんだろうな、きっと。
みんなどうして教えられてないのにわかるの?
参考↓

yamakinkin.hatenablog.com

 

 

(注1)東西南北は絶対的な座標か?
 北極点においては「南」以外の概念が存在しません。どっち行っても南です。逆に南極点においてはどっち行っても北です。
 ゆえに、東西南北ですら、北極点・南極点を中心とした相対的な概念です。絶対じゃない。
 そう考えると「上」と「下」の方が絶対的だよなー。東西南北は相対的・前後左右は主観的だけど、引力に従って引き付けられる方向が「下」、その逆が「上」なのは絶対的と言えるんじゃないかな。
 引力スゲー。

「あるある」は「教養」か

前回は敢えてさらっとしか書かなかったんだけど、なかなかに由々しき事態になっているなと思っていることがある。または、完全に時代が変わってしまったと言おうか。

前回の↓

yamakinkin.hatenablog.com

> うちみたいに大相撲中継も夕方のニュースも観ない家では、子どもたちに「四股名あるある」が通用しない。

これ、昭和~平成の時代ではまず考えられなかったことだ。おすもうさんの名前といえば「~~山」とか「~~の海」とか「若~~」とかそういう感じなのだということは、全世代に共通の常識であったように思う。

当時はネトフリやアマプラなどのサブスクが一般的でなかったからだ。
テレビを観るといえば「やってる番組を観る」しかなかった。今のように「観たいものを能動的に観る」時代ではなかったのだ。

アニメやドラマやバラエティ番組が放映されていない夕方の時間帯は、主にニュースや情報番組の時間であった。特に興味もないし観たくて観ているわけではないけれどスポーツニュースも流れており、「今日は巨人がヤクルトに勝ったよ」とか「若乃花が全勝優勝に王手をかけたよ」とか「読売ヴェルディでカズやラモスが大活躍だよ」とか、特に知りたいわけじゃなくても情報が自然と頭に入り込んでいた。

更に時代を遡って、私が子どもだった昭和時代まで行くと、私が学校から帰って宿題やってから遊んでる間、茶の間のテレビでおじいちゃんが大相撲中継を観ていたものである。おそらく、多くの世帯がそうだったと思う。
なんかおじいちゃんが毎日のように相撲観てるから、私も力士の名前を自然と覚えてしまってた。千代の富士とか北の湖とか大乃国とか朝潮とか小錦とか。

テレビのいいところは、自分が興味のない分野の情報も自然と摂取できることである。サブスクやインターネットで情報収集をするのも良いが、それだとどうしても範囲が偏ってしまう。
食事に喩えて言えば、自炊するのは一見いいことだけど、自分の食べたいもの・自分にとって良いものばかりを食べていると、なかなか新しい料理や食材を知る機会に恵まれない。その点、学校給食は、自分や自分の家庭で触れることのなかった食の可能性をもたらしてくれる。それが合わないと思ったら、合わなかったということを知るいい機会なのである。
知らない限りは、それが自分に合うか合わないかもわからない。

テレビの悪いところは、概ねくだらないところと、発信側が恣意的に情報を操作できるところである。
だから私はテレビ番組をほとんど観ない。「ZIP」と休日昼のローカル情報番組と「鉄腕DASH」と「美の壺Eテレ)」ぐらいしか能動的に観ていない。「ZIP」とローカル情報番組から、最大限、「世間一般の」トレンド情報を仕入れている。

私がテレビに対してこんな見解なので、平日の夕食時も、くだらないテレビ番組なんか観るぐらいなら子どもたちの観たいものをサブスクまたはYouTubeで流していてもいいと思っている。実際そうしている。


その結果が、「おすもうさんの名前あるある」がわからず、力士に「ごりごりたろう」と名付けてしまう子どもの爆誕である。

これはマズい状態なのか?
うちだけがそうならマズいけど、みんながそうなら別にいいような気がする。


こないだどっかで見たんだけど、「教養」っていうのは「内輪ネタ」なんだってさ。
なるほどなーと思った。「教養のある人どうしで通じるネタや仕込み」って、まんま「内輪ネタ」のノリだもの。

例)
ある時、イエスが弟子たちを連れて街中を闊歩していると、
一人の女性が民衆から石を投げつけられていた。
なぜこんなことをしているのかと、弟子が民衆の一人に問うと、
「この女は罪人だからだ」と答えた。
それを聞いたイエスは民衆にこう言った。
「ならばしかたがない。続けなさい」
そしてこう続けた。
「ただし、一度も罪を犯したことのない正しき者だけこの女性に石をぶつけなさい」
民衆は、とまどい、やがて一人また一人とその場を離れ、
石をぶつけているのはイエスただ一人だけとなった。

そんな高度な教養を必要としない、やや悪趣味なジョークである。ネットである程度有名なコピペ文。

キリスト教では、人間はみんな生まれたときからアダムとイブが犯した罪を負わされてており(=原罪)、その罪を負っていない人はイエスただ一人なのである。
これがわかっていれば、例文の理解度が深くなる。作った人の狙いもわかるようになる。

わかってなくても「いやせめてイエスは石投げんなよ、やめたれよ」というツッコミができる面白いジョークであるが、イエスが無原罪の人だということを知っているといないとでは、おかしみの質が違ってくる。

「教養」=「内輪ネタ」=「あるある」かもしれないな。
エスあるある →処女から生まれた。
エスあるある →石をパンに変えられる。
エスあるある →無原罪。
みたいな。

そう思うと、今更ながら、「聖☆おにいさん」はキリスト教と仏教の教養があればあるほど楽しめる漫画ですね。


さて、子どもがおすもうさんの名前あるあるがわからない状態が悪いのかそうでないのか。
私にはわかりません。

みんなが同じテレビ番組を観ていないということは、みんなが理解できる強固な「あるある」がだんだん無くなっていくことと等しいのではないか。
でも、みんなが同じようにSNSやらネットニュースを見て、同じ話題を楽しむことができたら、「あるある」は存続するのではないか。
しかし、SNSをやらない人もいるし、「あるある」が存続したとしてもそれは昔よりも遥かに普遍性に乏しく、それこそ内輪でしか通じない「あるある」に過ぎないのではないか。
それを「教養」と呼ぶことができるか否か。

うーん。

今は過渡期だから結論は出ない。

けど、個人間の断絶・世代間の断絶がなるべく起こらないように、私は親子の対話を大切にして行きたいと思うよ。