王様ホール

考えたことや感じたことや起こったことを書きます。

お世話係

「ぼくはクラスで一番ちゃんとしてるんだって。だから、同じくらいちゃんとしてるYくんと一緒に、Rちゃんのこと見てあげてねって言われて、ぼくとYくんでRちゃんを挟む席になった。」

小1の息子が話してくれた学校の様子の、ほんの一部だ。
この短いセンテンスに、色々と思うこと・感じることがある。

まず、「ぼくはクラスで一番ちゃんとしてる」。
一番ってことはないと思うが、あながち嘘ではないのだろう。先生によるお世辞というかリップサービスが多分に含まれているとは思う。
お馴染みの方にはお馴染みだが、うちの息子はとにかくいつも元気な全力ハイテンションボーイで、めちゃくちゃ声がでかい。よく癇癪も起こす。だから授業中もおふざけ野郎なのかと思いきや、授業はちゃんと聞いてるらしい。私も息子のその言葉を信じている。

そして息子は、おふざけ野郎のくせに、話す言葉や表現力は大人顔負けなのだ。
冒頭の文に出てきたYくんも、息子と同様、表現力が豊かな子らしい。先生いわく、「(息子)くんとYくんの会話を聞いてると、大人同士の会話みたいでびっくりします」。

では息子とYくんに挟まれた席に配置されたRちゃんがどんな子なのか、息子に聞いてみた。
「Rちゃんは、わがままでぜんぜん話を聞かない、困った子」。※原文ママ
息子とは幼稚園が違うので私はRちゃんのことを全然知らないんだけど、先生によって大人びた児童に両脇を挟まれるくらい、要チェックな子なのかな。
そういえば、息子は4月の初めの時点から、「Rちゃんは先生の話を聞かない」って言ってたなあ。

女の子なのに珍しいな、と思った。
男の子がいるご家庭の方、並びに当事者の男の子は気を悪くしないで聞いて頂きたいのですが、一般的に、話を聞かず好き勝手する子は男の子である場合が多く、それをお世話するのは女の子という場合が多くありませんか?

いや、うちの上の娘が1年生のとき、同じ幼稚園出身のちょっと困った男の子のお世話係的な感じになっていたのですよ。その子と娘はけっこう仲良しで、娘もその子と一緒に行動するのは嫌じゃないって言ってたので特に問題にはしませんでしたが、親としてはちょっとモヤモヤしておりました。それを裏付けるエピソードもあるんですが、ここでは割愛。

ほんで、なぜ私が「お世話係」に敏感なのかというと、私も小学校低学年時代、担任の先生によって、困った男の子と故意に席を隣にされた経験があるからです。
その男の子は、今でいう発達障害かもしれない子でした。当時は発達障害なんていう概念はまだありませんでした。学力は中の下くらいでしたが、流行のCMソングを歌いながら廊下を歩いていたり、妙な発言が目立ったりする子でした。それで、クラスのみんなにからかわれていました。
そういう子と席を隣にされて、私は正直、嫌でした。先生に相談したところ、「彼はああいう子だから、(私)ちゃんみたいな心の優しい子が隣にいた方がいいんだよ」という旨の説明を受けました。
この場合、「心の優しい子」というのは、「先生の言うことを聞く、先生に逆らわない、消極的で気が弱い、文句を言わない、おとなしい子」の意訳です。私には当時からわかっていました。席替えの前は、私と同じタイプのおとなしい女の子がその子の隣の席だったもん。「どうりで」と思ったわ。

私は本当は決して心が優しくないので、その男児に「間違って」ロッカーの扉をおもいっきり頭にぶつけて泣かせたことが1回だけあります。「ごめんね」「ごめんね」って必死の演技で言いました。クラス全員、私が「間違って」やったことを疑いもしませんでした。私はわざとそんなことするような子じゃなかったからね。

その子が泣いたとき、私は胸がスーッとしたんですよ。悪いことをしたとも思わなかった。だからこそ後味が悪いエピソードなんです。
今でもたまに思い出すぐらい猛省しています。なんなら、人生の反省エピソードナンバーワンかもしれません。陰湿すぎるよ。当時の私。

脱線に脱線を重ねましたが、私は自分の子どもたちが「お世話係」にされて、そのせいで楽しい小学校生活に支障が出るようだったら、断固として担任や学校に文句を言ってやるつもりです。
でも、娘は当時嫌じゃないって言ってたし、息子もなんかすげえリア充で「学校楽しいー!」って言ってるから、今んとこいいかな。

架空のバンド名と個人のこだわりの話

みんな、誰しも、心の中に架空のバンドがあるだろう。
「自分がもしバンドを組んだら(楽器や歌の可否は問わず)」でもいいし、「こんなバンドがあったらいいな」でもいい。
あるでしょ?
逆に、ないの?

あるとしたら、バンド名を考えますよね。架空のバンドのバンド名を。
心の中に架空のバンドがなくても、漠然と、なんとなく「バンド名」くらい考えたことはありませんか?
 
さて、実在するバンドで「Dream Theater」というのがいます。アメリカのテクニカルプログレメタルバンドで、メタル界隈ではかなりメジャーです。私は昔好きで、来日公演に計4回行きました。今は好みが変わったので追っかけてません。諸行無常
バンド名の由来は、メンバーが昔住んでいた町に「Dream Theater」という映画館があったのでそれをそのまま拝借したのだとか。
 
素敵なバンド名です。
DreamにもTheaterにも負のイメージはないし、「夢の劇場」って、いかにも何かわくわくすることが始まりそうじゃないですか。
メンバーが昔住んでた町にいい名前の映画館があって、本当に良かったですね。

私がもしそのパターンで自分のバンド名を付けるとしたら、そのバンド名は

「王様ホール」。


昔住んでた町の、ちっせえパチンコ屋の名前です。
だっせえ。

映画館すらない田舎町だったんだもん。
町の人の娯楽施設由来のバンド名を考えたとき、真っ先に思い浮かんだのが「王様ホール」でした。これはマジでダサい。ダサすぎる。「Dream Theater」と「王様ホール」とでは、天と地ほどの開きがありますね。

でも、バンドの音楽性によっては、「王様ホール」もこれはこれでアリかもしれないです。
一生メジャーになれなさそうだけどコアなファンがついてて、一部のマニアックな界隈ではそこそこ評価されていそうなバンドみたいです。
そういう生き方も悪くないな。
 
尚、「王様ホール」は、それ単品で検索してもヒットしません。そこから私が昔住んでいた町を割り出すことは困難です。「王様ホール 北海道」とか「王様ホール パチンコ」で検索してもダメですよ。私が試しました。
そうでもないと「王様ホール」なんて名前、こんなとこに出さないよ。 
私、こういうところには徹底してこだわっています。

話は変わりますが、昨日観た情報番組で、若い女子が前髪にめちゃくちゃこだわっているというのをやってたんですよ。
ファッションにまるで興味がない私から見ればクッソどうでもいい話題なんだけど、彼女らは自分のために前髪にこだわっていますね。他人から見てどうこうじゃなく、自分がこうありたい理想の姿を追及しているように見えました。
 
それって、私が文章を書く上でのこだわりと同じだなと思ったんです。
そりゃあ書く文章がいつもいつも素晴らしい出来かというとそんなことはないんだけど(イチローだって3割ぐらいしかヒット打てないんだぜ)、自分の気持ちよさのために、こだわるところはこれからもこだわっていきたいですね。
 
「王様ホール」ヴォーカル兼フレンチホルン担当 山本金魚 談

 

後日談……こうして「王様ホール」はブログタイトルになりました。

敢えて下書きをそのまんま公開する試み

ミスドの思い出

おやじのげんこつ ふろしき 
父のおみまい シュークリームではない

ゴールデンチョコレートは好きだ、ずっとずっと好きだ、私がミスドを認知した中学時代から好きだ
一度メニューから消えたことがある、復活して今でも売ってて本当に本当に嬉しい
根強い人気があったのだろう
または、他の飲食店でもよくある、「値上げのために一度メニューから消す」だったのかも?

フランクロールが美味しい
パイ系好き
ハンバーグパイとかエビグラタンパイとか、一時期こればっか食ってた
やっぱ私は甘いものよりこっち系である
マフィンもあったな


おぼんに敷いてある紙にミスドにまつわるエッセイがあったんだけど
必ずドーナツ2個とコーヒー2杯をオーダーするおばあちゃんの話で
高校生の私はミスド店内で溢れる涙を抑えることができなかった


んで急に飽きた
そんな食い過ぎたわけでもないのに、なんか突然、「ミスドはもういいや」ってなった
今はまた好き
だけど行動範囲内に無い

イオンに売りに来る
こないだ買ってゴールデンチョコレート食った
やっぱこれだわ
前に書いたけど、ミスド宅急便の話
ミスド×ヤマト運輸、いろいろやってんね
 
↑↑↑ここまでがマジの下書き↑↑↑
 
私はなんか思い付くと、こういう断片的な言葉でメモ的に下書きをします。
なんかポエムみたいじゃない?
※ポエム及び詩人に謝れ。
※ポエムのこと何もわかってないくせに。 
 
ただでさえミスドの思い出は多すぎるので、もしこの下書きを散文にして清書してちゃんと形にしたら、軽く2,000字は超えるだろうな。
膨らんで膨らんで、1,000字×三部作くらいになるかもしれない。
そのくらい、ミスドというお店は、生活の一部になり得るのです。

ひとつだけ確実に言えることがあるとすれば、
「私が一番好きなドーナツはゴールデンチョコレート
です。
ゴールデンチョコレート好きー。

単位が変わるやつ(後半汚い話注意)

ある一定のラインを超えると単位が変わるやつが好きです。

前回のやつ

これの
「業者から数百枚とか100kgとかまとめ買いした方が」
の部分がそれに当たります。
 
ぞうきんは通常、1枚2枚と数えます。
しかしぞうきん1枚1枚は軽いので、大量になると、数枚多かろうが少なかろうが誤差の範囲に収まってしまいます。
ぞうきん業界のことはわかりませんが、工場とかで使うウエス(油とかを拭くボロ布)は、kg単位で買います。実際に使うときは1枚2枚で数えますが、発注するときの単位はkgです。1袋20kgを5袋単位とかで発注します。
 
他には、人間の身長。
いわゆる普通の範疇の身長だと、150cmとか180cmとか、cm単位で表しますね。それが200cmを超えると、急に「2m」と言い出します。
ジャイアント馬場とかチェ・ホンマンの身長を言うとき、「2m○○cm」って言うでしょ? 2m超えるとそう言うでしょ?身長160cmの人をあんまり「1m60cm」とは言わないのに、200cm超えると急に「2m9cm」って言い出すでしょ。
しかし、これは厳密に言うと「単位が変わる」ではありません。同じメートル単位なんだけど、200を超えると急にセンチが無くなるという事例です。
大部分の人は身長が1m以上2m未満なので、2mを超えるってことは相当なインパクトなんでしょうね。
 
ここからは汚い話をします。
 
夫が、お腹を壊したりして大量の便が出た際、「う○こ5Lくらい出たー!」って言います。単位がLです。リットル。尚、言うまでもありませんが、そんなに出てるわけはない。
通常、う○こがどのくらい出たかを言い表すことはなかなか無いと思いますが、もし言うならg単位ではないでしょうか。300g出たーとか、重さじゃないでしょうか。またはcmで表せる場合もありますね。
それなのに夫のう○こはリットル単位なんですよ。体積。
初めて聞いたときは「リットルなんだwww」って感心したもんだけど、そこ感心するのは変かな。

ぞうきん

なんで年度始めは学校にぞうきん2枚持たせて行かなきゃならないんですか。年度始めだけだったかな。新学期毎だったかな。覚えてねえや。

学校でまとめ買いできないんですかね、ぞうきんぐらい。各家庭がイオン等で2枚100円のぞうきんを買って子どもに持たせるより、学校で業者から数百枚とか100kgとかまとめ買いした方が安く済みそうじゃない?その分は教材費に入れてくれれば全然支払うからさー。
 
ところで、私の子どもの頃(30~40年前)は、ぞうきんは買うものではなく家庭で古タオルを縫って作るものだったような気がする。うちだけかな。一家に一台ミシンがあって、ぞうきんはおろか子供服も手作りするおかあさんが多かったイメージがある。

繰り返して言うが、うちだけかもしれない。
うちは母が専業主婦で、裁縫や手芸が好きで、田舎だから洒落た子供服が売っていなかったという条件が揃っていたから、母が進んで子供服を作っていただけかもしれない。
あと、昔はファストファッションが無かった。ユニクロ西松屋も無かったから、すぐ小さくなる子供服をその都度買うよりも、手作りした方が安かったのかもしれない。
 
ぞうきんも、2枚100円の安いのが売ってなかったから、古いタオルで作った方が安かったのかもしれない。そもそもぞうきんとして売っているものが無かった可能性すらある。
 
もしかすると、学校側の認識が30~40年前のまま止まっている可能性もある。
ぞうきんは家庭でおかあさんがパパッと縫ったやつ持って来ればいいですからね、みたいな。
考え過ぎかねえ。
 
今、自分で縫ったぞうきんを子どもに持たせる人なんかそうそういないでしょ。みんな100円で2枚か3枚入ったぞうきん買ってるでしょ。
 
自分で使うぞうきんぐらい自分で買えよと言うなら、学校で子どもに使わせるぞうきんぐらい学校で買えよと言いたい。また繰り返しになるが、その分のお金は払うから。

ぞうきん用意すんの、めんどくさいんです。
 
うちにミシンがあったら、いらないタオルで作るかもしれない。でもうちにはミシンがない。年に数回しか使わないであろうミシンを、わざわざ買うつもりはない。無論レンタルするつもりもない。
 
どうにかなんないですかね。学校のぞうきん問題。

肉食老人

肉を食べる老人は認知症になりにくい、という話を、テレビか何かで昔聞いたことがある。
今軽く調べたところ、肉類の過剰摂取は認知症に良くないという意見がある一方、肉類からは良質なたんぱく質が摂れるので認知症に良いという意見もあった。まあ、何でもバランスが大切ということかしらね(投げやり)。
 
一昨年95歳で亡くなった私の祖父は、豚の角煮が大好きだった。そして、最期まで頭はしっかりしていた。それに相関があるかどうかはわからない。
最後の1年くらいはコロナ禍のせいで会えていなかったが、それまでの祖父は食欲も旺盛だった。
尚、祖父は、豚の角煮が食べたくなった際は自分で勝手に豚バラブロックを買ってきて、私の母に「食いてがどもって(意訳:そろそろあなたも食べたいかなと思って)」と言って手渡し、角煮を作ってもらうのだそうだ。何という身勝手か。

これが、元気な肉食老人のサンプル1だ。

サンプル2は、わが社の嘱託社員のおじさんだ。定年後にも嘱託の形で営業職を続けており、当時65歳を超えていた。
一緒に出張に行った際、安楽亭のランチに連れて行かれた。この人はお肉が大好きだという証言を、他の社員からも多数聞いている。
なんでも、家ではあんまりお肉を食べさせてもらえないから、出張に行った際にはランチにお肉を食べるのだという。
認知症の話からは逸れるようだけど、この人は間違いなく元気なおじさんですね。仕事も精力的にやってたし、もちろんボケてもいない。
 
さて冒頭の「肉食老人はボケにくい」話。

老人になっても肉をモリモリ食べる人は、ただ単に心も体も健康なまま歳を重ねている人なのではないか。
胃腸が弱くなって、若い頃大好きだった肉を受け付けなくなった人は、「歳取ったなあ……」「衰えたなあ……」とか言って、気持ちも弱ってしまった人なのではないか。
これが、私が最近抱いている仮説です。
  
肉食老人は、「肉を食べている」「から」認知症になりにくいのではなく、いつまでも肉を食べ続けられるくらい心身とも健康だから、結果として認知症になりにくいのではないか。

科学的根拠はありません。私が最近思っていることです。
要は「個体差って激しいよね」です。
 
肉食老人になれるかどうかは、強靭な胃腸を持って生まれてくるかという「運」かもしれない。
認知症のことはまた別軸の話。
 
ちなみに、夫は胃腸の衰えを如実に感じており、あんまりお肉が食べられなくなったそうです。
ちなみに、私は揚げ物を大量に食べると胃もたれを感じるようになりましたが、お肉は今でも大好きです。血糖値とコレステロールγ-GTPがすこーーーーしだけ上限値をオーバーしとりますが、だいたい健康です。目指せ肉食老人。

あさってのジョー

食前や食後、水洗いした台ふきんをテーブルの上に「ヘーイ」と言いながら投げて、娘や夫にテーブルを拭いてもらう。娘や夫に「ヘーイ」と言いながら投げて、キャッチしてもらうこともある。
リビングにふきんを持って行くのはめんどくさい。投げた方が速い。効率的である。

というわけで先日、夫にテーブルを拭いてもらおうと、私はキッチンから「ヘーイ」と言ってふきんを投げた。テーブルに向かって投げるつもりが、夫がキャッチの構えを見せたので、狙いが逸れて変なところに投げてしまった。ふきんはテーブルにも乗らず、夫にキャッチもしてもらえなかった。 

私は「あさっての方向に投げちゃったね」と言いながら、「あさっての方向」ってなんか面白いなと思ったのだった。
 
狙いが逸れたり見当違いの方に行っちゃうことを、どうして「あさって」って言うんだろう。

ちゃんと調べた。明日のことはある程度予測がつくが、明後日ともなるとどうなるか不確定なので、見当違いや判断ミスのことを「あさっての方向」と比喩するらしい。

わからなくはない。けど、明日の延長線上に明後日があるのだから、明日に比べてそんなにそんなに見当違いってこともないんじゃないかなと思う。なんだったら明日いきなり大事件が起こるかもしれないんだし、明日も明後日も、短期スパンという意味では大差ないのでは?

そうだ、「明日」といえばジョーだ。
あしたのジョー」がもし「あさってのジョー」だったら、どうなるだろう。
 
なんか、すごく間抜けだ。
 
「明日のために」を「明後日のために」にするだけで、コツコツ積み上げる努力の連続性が急に失われる。いきなり明後日が出てくると、「明日は?明日はどうしたの?」ってなる。こんなジョーは泪橋を逆に渡れない(←鉄拳さんのネタにありそう)。
 
結論はこうだ。
「明後日の」と言うときは、「明日」を飛ばしていきなり「明後日」の話をするから、より見当違い感が増すのだ。
やっぱり、「明日」あっての「明後日」なんですよ。明後日が明日の延長線上にあるという私の考えは間違ってません。それだからこそ、初手で「明後日」出したら違和感があるんです。
 
これは気づきだな。 
 
もちろん、以上は私個人の感想なので、「こんな風に取る人もいるんだなー」くらいに受け取って下さい。
この感想自体、あさっての感想かもしれませんから。