王様ホール

考えたことや感じたことや起こったことを書きます。

あさってのジョー

食前や食後、水洗いした台ふきんをテーブルの上に「ヘーイ」と言いながら投げて、娘や夫にテーブルを拭いてもらう。娘や夫に「ヘーイ」と言いながら投げて、キャッチしてもらうこともある。
リビングにふきんを持って行くのはめんどくさい。投げた方が速い。効率的である。

というわけで先日、夫にテーブルを拭いてもらおうと、私はキッチンから「ヘーイ」と言ってふきんを投げた。テーブルに向かって投げるつもりが、夫がキャッチの構えを見せたので、狙いが逸れて変なところに投げてしまった。ふきんはテーブルにも乗らず、夫にキャッチもしてもらえなかった。 

私は「あさっての方向に投げちゃったね」と言いながら、「あさっての方向」ってなんか面白いなと思ったのだった。
 
狙いが逸れたり見当違いの方に行っちゃうことを、どうして「あさって」って言うんだろう。

ちゃんと調べた。明日のことはある程度予測がつくが、明後日ともなるとどうなるか不確定なので、見当違いや判断ミスのことを「あさっての方向」と比喩するらしい。

わからなくはない。けど、明日の延長線上に明後日があるのだから、明日に比べてそんなにそんなに見当違いってこともないんじゃないかなと思う。なんだったら明日いきなり大事件が起こるかもしれないんだし、明日も明後日も、短期スパンという意味では大差ないのでは?

そうだ、「明日」といえばジョーだ。
あしたのジョー」がもし「あさってのジョー」だったら、どうなるだろう。
 
なんか、すごく間抜けだ。
 
「明日のために」を「明後日のために」にするだけで、コツコツ積み上げる努力の連続性が急に失われる。いきなり明後日が出てくると、「明日は?明日はどうしたの?」ってなる。こんなジョーは泪橋を逆に渡れない(←鉄拳さんのネタにありそう)。
 
結論はこうだ。
「明後日の」と言うときは、「明日」を飛ばしていきなり「明後日」の話をするから、より見当違い感が増すのだ。
やっぱり、「明日」あっての「明後日」なんですよ。明後日が明日の延長線上にあるという私の考えは間違ってません。それだからこそ、初手で「明後日」出したら違和感があるんです。
 
これは気づきだな。 
 
もちろん、以上は私個人の感想なので、「こんな風に取る人もいるんだなー」くらいに受け取って下さい。
この感想自体、あさっての感想かもしれませんから。