日本人、春に生えてきた芽は何でもかんでも天ぷらにして食べがち。
これはそんな春の芽のひとつ、ふきのとうの天ぷらでございま~す。
相変わらず「映え」など全く考えてない無骨な写真でごめ~ん。誠にすいまめ~ん。
頂き物です。もともとはこれの2倍量ありました。
ビニール袋1杯分のはずだったんだけど、揚げてみたら思ったより多くてびっくりした。
おそらく、私、ふきのとうの天ぷらをちゃんと食べるのは人生初です。
子どもの頃、親戚が採ってきたふきのとうの天ぷらが食卓に出たことはあったと思う。
でも、ふきのとうは苦みがあるので、子どもの私はただ単に「苦い」って思ってしまって早々にギブアップしたと思います。
たらの芽なんかもそうだけど、春の芽≒山菜って、たいがい苦みやエグみがあって、丁寧にアク抜きするか乱暴に天ぷらにしないと食べられないのが多いですよね。そして、それらは子どもには少々好かれにくいですよね。
子どもの例に漏れず、私はふきのとうに苦手意識を持っていました。苦いんだもん。
でも、大人になったから大丈夫かなと思って、食べてみました。たらの芽だって美味しく食べられるようになったんだから。
結果、苦かったですが、ちゃんと「美味しい」という感想で食べられました。やった。私、大人になった。
苦味の中にも、成長したふきに通じる独特の爽やかな香りがあってね。なかなか美味しいもんです。苦いけど。
本来「苦味」というのは、生き物が忌避する「毒」の味なんですよ。なのに人類はその「毒」をどうにかして食べる方法を編み出し、なんなら後天的な学習によって「苦味もこれはこれで美味しさのひとつ」だと感じるようになったんです。その「毒」を肝臓などで無毒化する能力に長けてたのかな。
人類の適応能力、半端ないっすね。
そんな人類の中でも特に日本人は
「春だ!草木の芽だ!食べ物だ!」
「初物だ!尊い!初物の勢い、いっただっきま~~っす!!」
って考える。
日本人にとって、「初物」は尊いんである。これは一種の宗教である。前に述べた。
神道なのかね。まだ「穢れ」がない、「初」を尊ぶ思想。
個人的には神道の潔癖すぎる思想が好きではないんだけど、「初物の勢いを頂きたい」気持ちはなんとなくわかる。
初物には何らかのエネルギーが宿っていると感じられるからだ。
長い冬を乗り越えて、蓄えていたエネルギーを振り絞ってやっと顔を出した初芽。
一番活動的な季節の、活き活きした魚。
一生懸命育てて、やっと収穫の時期を迎えたお米や野菜や果物。
そんなエネルギッシュな食べ物を美味しく頂いて自分の活力にしようという気持ちは理解できる。
食べられる食べ物の側としてみたら、「やった!やっと成長したよ~~~!!」というところで人類に取って食われちゃうんだから、ちょっと虚しい気持ちかもしれませんね。
だからこそ人類、いや日本人は、食べ物に「感謝」をするのです。生きている以上、何らかの生命を犠牲にするのは避けて通れないのだから、「感謝」をします。
日本は自然災害が多くて飢饉の発生も多かっただろうから、単に「春になった!食べられそうなもの生えてきた~~~~!!!」っていう気持ちで「初物」の山菜を珍重するようになっただけかもしれないですけどね。
で、冒頭のふきのとうの天ぷら、大人になった私はまあわりと美味しく頂けたんですが、子どもたちはどうだったのか。
下の子(7歳)の場合:
「食べてみる!」って言って、小さいのをひとつ食べた。苦かったようだ。真顔としかめ面の中間のような、何とも言えない微妙ないい顔してた。
これは苦手かなーと思って何も言わず見守ってたんだけど、その日の食事の時間の終盤に、自ら進んでもう1つ食べていた。また微妙ないい顔してた。
上の子(12歳)の場合:
薦めたけどなかなか食べなかった。その日の食事の時間の終盤に、試しに小さいのをひとつ食べた。
「あ~~……これは、こういうのかー。苦いけどこれなら大丈夫、まあまあ美味しい」みたいなことを言っていた。
もうひとつ薦めたけど食べなかった。
結論、「微妙」。
2人とも、大人になってから、機会があったら再チャレンジしてみてほしい。
こんなふうに、ふきのとうの天ぷらは、いろいろ考えるきっかけになった。
ななななー ななななー ありがとう ふきのとう♪
※序盤で伏線張ってたことに気付いてくれた方には「ありがとうオリゴ糖」の言葉を贈ります。