王様ホール

考えたことや感じたことや起こったことを書きます。

気を遣われないために気を遣う

気遣いのできる人って、素敵ですよね。

私にゃ無理。無理って言い切るのは良くないから「苦手」ぐらいにしておこう。これでも人生経験を積んで昔よりはマシになってると思うけど、苦手なものは苦手だ。

まず、人が何を望んでいるのかよくわからないのだ。

じゃあ自分だったらそのシチュエーションのとき他人にどうしてほしいか?と問われたら、答えはだいたい「何もしてほしくない、ほっといてほしい」だ。
他人に何かしてもらうのは、申し訳ないからだ。
たとえ誰かが100%善意から助けてくれたのだとしても、私は感謝しながらも負い目を感じるだろう。その上、感謝の気持ちが足りなくて無礼だったらどうしよう、何かお礼や恩返しをするべきだろうか、などなど、あれこれ気に病んでしまうだろう。

なんかもう、人間社会で人間として生きるのに向いていない気がする。

そんなこと言っても私は幸か不幸か人間で、人間社会で生きていかなければならないのだ。しかも、なるべく嫌われたくない。嫌われたら目立っちゃうから、放っておかれなくなる。それだけはどうしても避けたいのだ。毒にも薬にもならない空気のような人間でいたい。
その私の生き方を他人がどう思っているかは知らないし、知りたくもない。他人の目が気になるフェイズはとっくに過ぎた。

話を少し戻して、私は他人に「何もしてほしくない、ほっといてほしい」という気持ちがすごくある。

たとえば、私は会社などで、先に歩いてた人がドアを押さえて待っててくれるのが苦手だ。先方は100%の親切心でやって下さっていることだが、そのせいで私が少し急いで歩かざるを得ない状況になったり、感謝の心を示したりしなければならないので、ちょっと煩わしい。できれば私に構わずさっさと行ってほしい。

ね。私、人間向いてないでしょ。

廊下ならまだいい。比較的素直な心で感謝できる。
問題は、階段を上った先にオフィスのドアがある状況だ。

ドアを開けて待ってて下さる人がいることにより、私は階段を少し急いで上らなければならない。その人に申し訳ないからだ。
私はあまり若くないし体重が重いので、階段は自分のペースで上りたいのだ。私がいろんな作業をしている地下フロアから地上2階のオフィスへの階段を上ってちょっと疲れているときに、ドアを開けて待っている親切な人のせいで更に急ぐ羽目になる状況は勘弁してほしい。但し、親切な人に対してちゃんと感謝していることだけは重ねて言いたい。

この状況に困っていたので、対策を考えた。

名付けて、「ドアを開けて待っててくれる人に気付いてない」大作戦。

私の頭上でドアを開けててくれる人の気配を感じ取りつつも、私はその人を見ずにひたすら下を向いて、マイペースで階段を上る。そのうち、その人は諦めて先に行く。

勝率は、ほぼ100%だ。
だって私は気付いていないのだから、急ぐ必要が無い。その人だって、私が気付いていないのだから親切心を発揮する必要がないし、ドアを閉めて先に行ってしまうことへの罪悪感を抱かずに済むだろう。
これは私なりの親切心でもある。相手に気を遣わせないために、私の方が気を遣っているのである。
言ってみれば、めちゃくちゃオフェンシブなディフェンスである←そう言い切るのには疑問の余地がある。

何もされずほっとかれる方法はただひとつ、「他人の手助けが必要になる状況を作らない」ことなのだ。

この境地に達してしばらく経った先日、広いフロアで、私の少し先でドアを開けようとしている人がいた。
私は、ドアを開けようとしながら後ろから人が来ないか確かめて振り返ったその人の視線からさりげなく外れることに成功した。私は自然にこの行動をしていた。
その人はドアを開けて普通に去って行った。

やった。

「やった」と思いつつも、「私はなんでこんな消極的な気の遣い方をしてるんだろう」と自省した。
気を遣うんならもっと、積極的に他人の役に立って感謝されるようなことに遣えばいいのに、なんで私は「気付かれないため」「他人に気を遣わせないため」に自ら気を遣ってるんだろう。

答えはひとつ。私はこういうタイプの人間で、こういうタイプが人間社会でなんとか生き抜くために身に付けた処世術なのである。


あんまり気遣いができない人かなーと思われている人の中にも、もしかしたら、私のように、変な方向に気を遣っている人がいるかもしれない。
そういう人を見つけてもどうか、そっとしておいてあげて下さい。
気を遣われることが苦手な人間もいるのです。
たいがい、そういった人は孤独ですが、自分から進んで孤独を選んでいる人だっているのです。