王様ホール

考えたことや感じたことや起こったことを書きます。

絶対違うってわかってるんですけど ※「カラマーゾフの兄弟」ネタバレ注意

聖書の言葉
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。
 
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」でこの言葉を知りました。
何を言いたいのか、どうとでも解釈できる言葉だと思いませんか?

いや、本来はイエスキリストの犠牲が無意味ではなかったこと、その尊い犠牲から何かが始まることを言っているようですね、調べてみたら。
しかし、ドストエフスキーが何かの暗喩として引用しているように、いくらでも応用が効くんですよ。
 
カラマーゾフネタバレ
ゾシマ長老の死がアリョーシャの生き方に影響を与えたこと。
児童虐待事件コレクターのイワンがアリョーシャに語った、犠牲になった子どもたちの話。
フョードルが何者かに殺されたことで動き出す物語。
もしかしたら、書かれることのなかった「続編」に、アリョーシャか誰かの犠牲が描かれるかもしれない。
 
っていうふうに、「カラマーゾフ」内だけで言っても何パターンかの解釈があるわけです。

「誰かの死」と「その影響」があれば、物語に「一粒の麦」を当てはめることは比較的簡単です。
だって物語上、「死」はものすごいインパクトのあるイベントだから。ゆえに使いすぎると「また死かよ」って白けるくらいベタなネタでもある。ごちゃごちゃしたしがらみを断ち切る安直な手段でもある。

物語に「無意味な死」はあんまり登場しない。たとえ人物が犬死にしたとしても、関係する人の心に影響していたり、何かの意味を持っていることが大半だ。何より、無意味なら描く必要がないのでは?
だから物語に登場する死には必然的に物語を動かす力がある。だって物語を動かすために死を持ち出してるんだから。
 
それでは実人生における死とは、
……とかいう話をしたいのではなく、私が「一粒の麦」の話を思い出すのは、台所の片隅に一粒の米が落ちてる時です。

察しのいい方ならもうおわかりでしょう、「ここからが本題」。
 
台所の片隅に落ちている米粒がそのままなら、それはただ米粒のままである。だが、拾われて炊かれて食べられれば誰かの栄養になる。

台所の片隅に落ちている米粒がそのままなら、それはただ米粒のままである。だが、ゴミ箱に捨てられて焼却されれば熱と灰と二酸化炭素になる。

意味?特にないよ。
こう思っちゃうんだよ、というだけ。
 
ちなみに私の宗教観ですが、「仏教好き」です。日本人の大多数がそうであると思われる、自分を無宗教だと思いつつ神道や仏教の考え方が自然と身についていて、実家には神棚と仏壇があり、お盆には墓参りに行き、クリスマスも祝っちゃうような、ただの人です。日本教ってやつ?
これが一番居心地いいんだよねー。